第1回 宇治茶の歴史

 宇治茶の起源を示すものに、黄檗山萬福寺門前の「駒蹄影園跡」碑があり、そこには、「栂山の尾上の茶の木分け植ゑて あとぞ生ふべし駒の足影」と記されています。茶の木を分け、馬で畑に乗り入れて、馬の足の跡に種を蒔くことを教えたのは、高山寺の明恵上人。鎌倉時代初期、栄西が宋より持ち帰った茶種と抹茶の製法を広めた人物です。この後、後嵯峨天皇の宇治来訪を機に、平等院の小松茶園、木幡の西浦茶園が開かれたとされます。

 時は流れ南北朝の頃、本茶と呼ばれた栂尾茶とそれ以外のお茶を飲み当てる「闘茶」が流行。次第に複雑化し、ゲームとして楽しむため風味の異なる茶を得ようとする傾向が強まると、宇治産のお茶が注目を浴び、産地を冠して「宇治茶」と呼ばれるように。義満の治世には将軍家や管領家管轄の「宇治七名園」が作られ、「森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日につづく枇杷とこそ聞く」と歌われました。やがて茶の湯の流行とともに、信長・秀吉らに珍重され、宇治茶は天下の茶となり、千宗易(利休)も茶頭として、宇治茶を統制・保護。上林などの有名な茶師も活躍し、徳川三代将軍・家光の時に、将軍家に納める新茶を運ぶ御茶壷道中が始まります。

 徳川吉宗の時代、庶民の間で煎茶が定着。宇治田原の永谷宗円は、古い製法から、抹茶の製法に“揉み”の工程を加えた新製法の煎茶を考案しました。この色・香・味とも優れたお茶は「宇治煎茶」として大々的に売り出されます。天保年間には、抹茶と同じ覆下園の茶葉を煎茶にした「玉露」が生まれ、今に続く宇治茶ブランドが定着しました。

参考文献 吉村亨著「宇治茶の文化史」


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